BS世界のドキュメンタリー『キューバ 野球の島の物語』(NHK-BSP)🤗

Island of Baseball
45分 2020年 制作:アメリカ=Refocus Digital Media

キューバは20世紀終盤の一時期、アマチュア野球界において「世界最強」の名をほしいままにしていた。
今年の東京オリンピックでは予選落ちしたが、1992年バルセロナ、1996年アトランタと2大会連続で金メダルを獲得し、クリーンアップのオマール・リナレス、オレステス・キンデランは大リーガー級の選手と評価されている。

とくに走攻守と3拍子そろったリナレスには当時、巨人の長嶋監督がぞっこんで、読売グループをあげて招聘に乗り出したほど。
しかし、キューバは国の体制上、政府の許可、わけても最高権力者のカストロ議長の了解を得なければ選手を日本に連れてくることができず、巨人は最終的にリナレス取りを断念。

リナレスはその後、全盛期を過ぎた2002年に中日と契約し、3年間プレーしたあと、巡回打撃コーチに就任した。
キューバのプレーヤーがある程度〝輸入自由化〟された現在は、ソフトバンク・デスパイネ、中日・ビシエドなど、数多くの選手が活躍している。

キューバではなぜ、そうした優秀な選手を輩出するほど野球が盛んになったのか。
実は、カストロ議長やゲバラが1953~59年にキューバ革命を成功させるよりもはるか昔、キューバがスペインの植民地だった1860年代まで遡る、という史実の紹介から本作は始まる。

アメリカからキューバに野球が伝わったのはアメリカの南北戦争時代(1861〜1865年)、南軍に武器を密輸する船がキューバの港町マタンサスに寄港し、ここで野球を知っている乗組員が試合を行ったことが発端だった。
その試合が行われたパルマル・デ・フンコ球場がいまも残っていて、見た目こそ粗末ではあるものの、いまだに試合が行われているという事実に、まず驚かされる。

キューバの庶民の間で野球が広まったこの時代、木の棒を振り回してボールを打つアメリカのスポーツを、スペインは分離独立と暴力の象徴であり、反体制的な競技と見なして、1869年に野球禁止令を発布した。
これが、逆にキューバ国民の野球熱に火を点けたのだ。

キューバが1868年から4年間続いた独立戦争を経て、1902年にスペインの支配を脱して独立国家となると、歓喜に沸くキューバ国民は堂々と野球をプレーし、楽しむようになる。
ここへ、厳しい人種差別が行われていた当時のアメリカから、メジャーリーグでプレーできないニグロリーグの優秀な選手が参加してきた。

キューバにも人種差別はあったが、アメリカほど露骨ではなく、ニグロリーグの選手たちは、キューバで素晴らしいプレーを見せると、アメリカ以上に観客の喝采を浴び、尊敬の念すら抱かれることに感激したらしい。
彼らは母国のニグロリーグで得た技術や経験をキューバに伝え、キューバのチームはドミニカやベネズエラなどに遠征して、中南米全体に野球を広めていく。

こうしてキューバ人とアメリカ人がしのぎを削り、黒人と白人が同じチームで切磋琢磨し合ったことが、キューバ野球がのちに世界最強と言われるまでになった土壌を形成したのだ。
野球を通じたアメリカ、キューバの交流が最盛期を迎えていたこの時代、ベーブ・ルースやタイ・カッブなどメジャーリーグのスターたちもキューバにやってきて、キューバ選抜チームと交流試合を行っている。

キューバをナメてろくな練習をせず、カジノでギャラを浪費したルースが1本もホームランを打てなかった試合で、キューバの主砲クリストバル・トリエンテはホームランを3本もかっ飛ばした。
キューバのエース、ホセ・デド・カリエダ・メンデスがカッブを三振に打ち取り、カッブが負けん気を発揮して二盗、三盗、本盗を試みると、最後に正捕手のゴンザレスがブロックしてタッチアウト、などなど、あまりに大昔なので動画はないものの、ナレーションを聞いているだけで胸がワクワクするようなエピソードが紹介される。

メジャーリーガーとの交流試合で活躍したキューバの選手たちはやがて、オール・キューバンズというチームを編成し、アメリカに遠征するようになった。
このチームはニグロリーグに組み込まれ、ニューヨーク・キューバンズ・ベースボールクラブとなり、マルティン・ディーゴやアレハンドロ・オムスら、のちに伝説的存在となる名選手が入団。

そうしたアメリカ、キューバの交流によって、メジャーリーグも黒人選手のパワーと優秀さを認識し、1947年、史上初の黒人大リーガー、アメリカ人ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューへとつながった、と本作は説く。
実は、メジャーでも黒人をプレーさせるべきだという世論と機運が盛り上がり始めたこのころ、ロビンソンよりも前に複数のメジャー球団がオファーを出した黒人選手がいた。

それが、当時キューバのスター選手だったシルビオ・ガルシアである。
しかし、ニグロリーグでプレーし、アメリカの人種座別の実態を見せつけられていたガルシアは、もうあんな扱いを受けるのは真平御免だ、とメジャー球団のオファーを拒絶。

こうして、1947年、ガルシアに次ぐ候補だったロビンソンがドジャースとメジャー史上初のマイナー契約を結び、ロビンソンはキューバのハバナで行われたスプリング・トレーニングに参加する。
このくだりでは、「キューバの皆様から頂いた多くの励ましに感謝します」というロビンソン手書きのステートメントが大変印象に残る。

このようにして、アメリカ社会が人種差別を乗り越えようとしていたこの時代、アメリカに野球を伝えられたキューバは、逆にアメリカ野球の隆盛と人種差別制度の軽減・撤廃にも貢献していたのだ。
そのキューバが、1961年のピッグス湾事件をきっかけにアメリカと国交断絶、ウインターリーグも中止され、キューバ選手がメジャーリーグでプレーするには亡命するしかなくなった、という現在の状況はあまりに寂しく、実に皮肉なてんまつである。

オススメ度A。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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