東京ドームで中村稔さんを悼む

ベイスターズの試合前の打撃練習

今週末はきょうから東京ドームで行われるDeNA-広島3連戦の取材である。
DeNAの本拠地・横浜スタジアムが東京オリンピックのメイン球場に指定されており、その準備に入っているため、代わりに東京ドームを借りて主催試合を行うことになったもの。

滅多にあることではない、という以上に、こんな試合を取材することは二度とないだろうから、きょうは様々な雑感を集めてブログを書くつもりだった。
が、その矢先、ネットニュースで思わぬ訃報が飛び込んできた。

元巨人の投手で、藤田監督時代に巨人の投手コーチを務めていた中村稔さんが、今月2日に亡くなっていた、と巨人が突然発表したのだ。
年齢82歳、死因は不明、葬儀はすでに家族で済ませている、という以外に詳しいことはまったくわからない。

僕が日刊現代の運動部に配属された1988年、稔さん(生前はそう呼ばせていただいていたので、本稿でもこの呼称を使用します)は同紙の専属評論家だった。
その年のシーズンオフ、巨人の王貞治監督の後を受け、藤田元司監督が復帰すると、じっこんの間柄だった稔さんも懐刀として投手コーチに就任。

第2次藤田監督1年目の翌89年、僕は日刊現代の編集局次長から巨人担当を命じられ、しょっちゅう稔さんについて回るようになる。
日刊現代は当時、過激な巨人批判を売り物にしており、目の敵にしている関係者も多い中、稔さんのような味方がいたことは僕にとって大変幸運だった。

この駆け出しのころはまだ、のちに本まで書いた川相昌弘、原辰徳、村田真一とも面識はないに等しい。
キャンプ地のグアムや宮崎で「日刊ゲンダイ」と書かれたIDを首からぶら下げていただけで、選手やチーム関係者はもちろん、同業のはずのメディア関係者にさえ警戒心を露わにされていたものだ。

僕はこの年、夏期休暇と一部の遠征を除き、キャンプ、オープン戦、公式戦を通じて、巨人の取材をほぼ〝完走〟。
そのご褒美というべきか、近鉄を相手に3連敗からの4連勝で日本一になったあとは、会社の計らいで2週間のパームスプリングスキャンプにも行かせてもらった。

そのころ、巨人の首脳陣で最も一緒によく飲んだのが稔さんだ。
何事にも大らかな稔さんは、「飲んで歌えば春が来る」が口癖で、原稿になるネタもとても書けない裏話もたくさんを教えていただいた。

振り返れば、その後に自分が進む道を決定づけたあの1989年、稔さんは僕の人生にとって、極めて重要な役割を果たしてくれたのである。
亡くなってからこんな謝辞を並べても詮無いことだとはわかっているが、この場で改めて、稔さんには大変感謝しています、と伝えたい。

謹んでご冥福をお祈りします。
(文中一部敬称略)

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
先頭に戻る