ハマスタで拙著の主人公に会う📖⚾️

きょうも打撃練習を横からチェックしていた田代さん

一昨日、東スポに掲載された拙文『赤ペン!!』は、新聞がコンビニやキヨスクに並ぶ前、午前11時にネットの東スポWebにアップされた。
これが東スポの公式アカウントでTwitterに流れると、あっという間に拡散され、いいねが300件以上、リツイートが60件以上、転載されたYahoo!ニュースで寄せられたコメントが100件以上。

どれもこれも大した数字ではない、と言われればそれまでだけど、記事の主人公は今年66歳の巡回打撃コーチ、田代富雄さん。
その田代さんがベンチ入りメンバーから漏れたという情報がYahoo!ニュースに流れると、今度は「せっかく打線が上向いてきたのに、なぜ田代さんを外すのか」「いまこそ田代先生の力が必要だ」などというコメントが寄せられた。

僕としては、2カード続けてベンチ入りし、先週末は敵地・仙台での楽天戦で、久しぶりに遠征した田代さんの疲労を三浦監督が慮ったんじゃないかと思う(あくまでも推察ですが)。
ともかく、それやこれやで、田代さんに対するベイスターズファンの根強い支持率の高さを改めて再認識しました。

一昨日のWorksにも書いたように、田代さんは拙著『最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』(2013年/講談社)の主人公。
僕があの本を書いていたころ、田代さんはいったんベイスターズを去り、韓国のSKワイバーンズも解雇されて浪人中の身で、とてもいまのようにまた青いユニフォームを着られるとは想像もしていなかった。

それだけに、こうしてまた、たまに田代さんにネタをもらい、記事を書いて好評を博すと、ささやかながらも無性にうれしい気分になる。
なお、田代さんからは人伝に「赤坂さんの原稿読んだよ、ありがとう」というメッセージをいただきました。

一方、ソフトバンクでは、スコアラー兼査定担当補佐の宮田正直さんにハマスタの記者席で久しぶりに再会。
こちらもノンフィクションの拙著『失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の年の球児たち』(2016年/講談社)の主人公である。

宮田さんは元上宮高校のエースで、1年先輩の元木大介(現巨人ヘッドコーチ)さん、種田仁さんと1989年春の甲子園で東邦との決勝まで進出。
ところが、2-1で迎えた延長十回裏2死無走者から自身の四球をきっかけに崩れ、痛恨のサヨナラ負けを喫したことは、いまも高校野球ファンの語り草だ。

宮田さんは、卒業後に入団したダイエー(現ソフトバンク)でさらなる悲劇に見舞われた。
一軍登板のないまま戦力外となり、打撃投手をしていた1999年、強烈な打球を頭部に受けてくも膜下出血を起こし、あの劇的な甲子園の決勝戦の記憶をなくしてしまったのである。

その経緯を追い、宮田さんの記憶が蘇ることを願って書いた拙著は、新潮ドキュメント賞にノミネートされた。
宮田さんはいま、チーム付のスコアラーとなり、昨年から査定担当補佐も務めているという。

せっかくだからと写真を撮り、LINEでかつての上宮のチームメート、バッテリーを組んだ捕手・塩路厚さん、二塁手・内藤秀之さん、先輩の光山英明さんに送らせてもらいました。
種田仁さんにも送りたかったけれど、いま何をしているんだろうか。

左が宮田さんです

なお、DeNAの田代コーチはきょうからふたたびベンチ入り。
試合は3-3の同点に追いつかれた直後の7回裏、大和の勝ち越しタイムリー二塁打でDeNAが競り勝った。

大和はヒーローインタビューで勝負強さの秘訣を聞かれると、まるでお約束のように「田代さんのおかげです」。
打ったときの気持ちも、「田代コーチが喜んでいたのでそれが一番です」。

すると、今回も打席に入る前、僕が『赤ペン!!』で書いたように、また「打ってこい」「おなかがすいたから決めてくれ」というような田代コーチの効果的な一言があったのか。
と思ったら、「きょうは何も言ってくれなかったですね」。

しかし、これでDeNAは2012年以来、9年ぶりにソフトバンクに勝ち越し。
三浦監督は勝利の喜びを嚙みしめながらも、「過去は過去、今年は今年、この勝ちを次につなげていくだけです」と引き締めていました。

ヒーローインタビュー後に打ち上げられた〈最優秀選手花火〉
その次の〈勝鬨花火〉も見事でした
スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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