『エペペ』カリンティ・フェレンツ

EPEPE 
恒文社 翻訳:池田雅之 333ページ 定価:1600円=税込
 第1版第1刷:1978年12月30日 第3版第1刷:1990年3月20日 原書発行:1970年 

本書の存在を知ったのは、ロバート・A・ハインラインの傑作短篇『時の門』(1941年発表、1985年邦訳発行/早く書房)と同様、大学受験浪人中の1980年に読んだ筒井康隆の書評集『みだれ撃ち瀆書(とくしょ)ノート』(1979年初版/集英社)である。
あの筒井さんが、これでもかとばかりに本書を激賞している言葉に、まだ10代だったぼくはたちまち魅入られた。

「まさに不条理の洪水。カフカの三倍カフカ。まったくどうなることかと思い本をとじることができない。
不条理文学を読み馴れているぼくでさえこの有様だから、このての文学を初めて読む読者など興奮して鼻血を出すのではないか」

それから10年後の1990年ごろ、どこの書店だったかは忘れたが、本書を見つけたときは、1600円という当時としては高価だったにもかかわらず、飛びつくようにして買った。
ちなみに、ほぼ同じ厚さのハードカバー、『みだれ撃ち瀆書(とくしょ)ノート』はその半分の780円である。

しかし、さっそく意気込んで読み始めたものの、筒井作品とはまるで違う重苦しい展開と雰囲気になかなか読み進めることができず。
ちょうど、日刊ゲンダイ運動部の巨人担当記者として毎日取材と原稿に追われていた時期とも重なり、とうとう半分もいかないうちに投げ出してしまった。

それでも、言語学者にして元水球選手という著者、カリンティ・フェレンツによって確立された異世界の迫力は圧倒的で、若輩ながらに不条理文学として大変高い完成度を示していることぐらいは理解できたのも確か。
未読のままにしておくのも不本意だったので、56歳になったいま、初めて最終ページまで完読したわけである。

主人公ブダイは著者の分身と思しき言語学者で、ヘルシンキでの学会に向かったはずが、飛行機を乗り間違えてどこともわからぬ別の国に到着。
空港へ着陸後、人の波に巻き込まれるようにしてバスに乗り、終着点でホテルに辿り着く間、看板に書かれた文字も人々が交わす言葉も、まったく見たことも聞いたこともない言語であることに驚愕する。

いったい、ここはどこなのか、ホテルのフロントで英語、フランス語、ハンガリー語と何カ国もの言語を使って話しかけるが、フロントマンはわけのわからない言語でまくし立てるだけ。
あてがわれた部屋に押し込められるようにしてチェックインしたものの、空港でロストバゲージしてしまった上、パスポートもフロントで預かられて返してもらえない。

空腹を覚えて食事に出かけると、カフェもレストランも長蛇の列で、やっと自分の順番が来たから注文をしようにも言葉がわからず、癇癪を起こしてウエイターを怒鳴りつけたらなお意味不明の言葉が返ってくるだけ。
それならばと公衆電話の電話帳や新聞の言語を仔細に調べてみたが、言語学者のブダイが日本語や韓国語、ヘブライ語や古代ギリシャ語の知識を総動員してもまったく解読できない。

このあたり、言語学者のカリンティはかなり詳しく書き込んでいて、読んでいるこちらもブダイと同じくらいイライラしてくるが、おかげでいささか読み進めるのがしんどくもなってくる。
パスポートが戻ってこないのならと、ブダイは川を伝って海に出よう、港で助けを求めるか、いっそ船に潜り込んでこの国を脱出しようと考える。

ところが、この街の川は公園の溜池で行き止まりになっていた。
さらに、教会の鐘楼に上り、街全体を見下ろすと、どこまでも住宅や建築物の家並みが広がっているばかりで、海も山も見えないことにブダイは呆然。

このあたりまでが中盤で、かつて筒井さんが評したように鼻血が出るほどではないにしろ、確かに巻措く能わずと言っていい面白さ。
通行人やウエイターと話が通じないことに業を煮やし、男と女の一対一になったら最低限の会話もできるだろうと、売春婦を買ったり、エレベーターガールを口説いたりする描写も読ませる。

しかし、ブダイがデモに巻き込まれ、これを制圧しようとする軍隊の攻撃を受けるあたりから、1970年代の文学作品ならではの共産主義体制批判につながる主張が露骨に感じられるようになってしまう。
エンディングも少々甘く、中盤まで期待したほどの感動が盛り上がらない。

また、この「どこにでもありそうなのにまったくわからない言語が使用されているヨーロッパの小国」という設定は、現代のようにインターネットが普及し、誰もがスマホを持っている状況では読者にピンとこないのではないか。
そういう意味で、本書はやはり、買ったときにすぐ読んでおくべきでしたね。

とはいえ、不条理文学のとしての完成度が非常に高いのも確か。
筒井さんの評価は正しかった、と改めて思いました。

2019読書目録
※は再読、及び旧サイトからのレビュー再録

32『仁義なき戦いの〝真実〟 美能幸三 遺した言葉』鈴木義昭(2017年/サイゾー)
31『ある勇気の記録 凶器の下の取材ノート』中國新聞社報道部(1994年/社会思想社 現代教養文庫)
30『誇り高き日本人 マルカーノ選手』藤井薫(1979年/恒文社)
29『ブルース・リー伝』マシュー・ポリー著、棚橋志向訳(2019年/亜紀書房)
28『タイムマシンのつくり方』広瀬正(1982年/集英社 集英社文庫)
27『時の門』ロバート・A・ハインライン著、稲葉明雄・他訳(1985年/早川書房 ハヤカワ文庫)
26『輪廻の蛇』ロバート・A・ハインライン著、矢野徹・他訳(2015年/早川書房 ハヤカワ文庫)
25『変身』フランツ・カフカ著、高橋義孝訳(1952年/新潮社)
24『ボール・ファイブ』ジム・バウトン著、帆足実生訳(1979年/恒文社)
23『車椅子のヒーロー あの名俳優クリストファー・リーブが綴る「障害」との闘い』クリストファー・リーブ著、布施由紀子訳(1998年/徳間書店)
22『ベストセラー伝説』本橋信宏(2019年/新潮社 新潮新書)
21『ドン・キホーテ軍団』阿部牧郎(1983年/毎日新聞社)※
20『焦土の野球連盟』阿部牧郎(1987年/扶桑社)※
19『失われた球譜』阿部牧郎(1998年/文藝春秋)※
18『南海・島本講平の詩』(1971年/中央公論社)※
17『カムバック!』テリー・プルート著、廣木明子訳(1990年/東京書籍)※
16『ボール・フォア 大リーグ・衝撃の内幕』ジム・バウトン著、帆足実生訳(1978年/恒文社)
15『ショーケン 最終章』萩原健一(2019年/講談社)
14『頼むから静かにしてくれ Ⅱ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
13『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
12『試合 ボクシング小説集』ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳(1987年/社会思想社 教養文庫)
11『ファースト・マン 月に初めて降り立った男、ニール・アームストロングの人生』ジェイムズ・R・ハンセン著、日暮雅通・水谷淳訳(2019年/河出文庫)
10『平成野球30年の30人』石田雄太(2019年/文藝春秋)
9『toritter とりったー』とり・みき(2011年/徳間書店)
8『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』津田大介(2009年/洋泉社)
7『極夜行』角幡唯介(2018年/文藝春秋)
6『力がなければ頭を使え 広商野球74の法則』迫田穆成、田尻賢誉(2018年/ベースボール・マガジン社)
5『OPEN アンドレ・アガシの自叙伝』アンドレ・アガシ著、川口由紀子訳(2012年/ベースボール・マガジン社)
4『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
3『かもめ・ワーニャ伯父さん』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
2『恋しくて』リチャード・フォード他、村上春樹編訳(2016年/中公文庫)
1『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』ティム・オブライエン他著、村上春樹編訳(2006年/中央公論新社)

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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