同級生のお母さんが亡くなった

広島県立安古市高校の同級生、幸田新水(よしみ)くんのお母さんが今月2日、83歳で亡くなった。
きのう、サイクリングから帰宅した直後、私よりも幸田くんと親しかった同級生、勝岡義弘くんがMessengerで知らせてくれた。

幸田くんが高校在学中、ご両親、弟さんと住んでいた家は、高校から歩いて5分程度のところにあり、私は当時、よく下校途中にお邪魔していた、というより転がり込んでいた。
主な目的は、いまや伝説化しているテレビドラマ、ショーケン(萩原健一)主演の『傷だらけの天使』、松田優作主演の『探偵物語』の再放送を見るため。

どちらも放送時間は月〜金の午後4時からで、バス通学していた私が家に帰っていたのでは間に合わない。
そこで、あのテのドラマが好きだった私をはじめ、仲のよかった同級生が幸田くんの家に集まり、少々背伸びした会話を交わしながら、不良っぽいひとときを楽しんでいたのだ。

幸田くんは京都産業大学に進み、日本能率協会に就職して東京に転居。
やがて、甲斐性のない私とは違い、ちゃんと結婚して千葉に家を買った。

私が会社を辞めようかどうしようかと悩み、いったん休職することにした2005年の夏、一番最初に食事に誘ってくれたのが幸田くんだった。
当時、私はうつ状態で精神神経科の病院に通っていて、幸田くんからのメールにも返事をしないでいたら、「どうよ、いつがいいんだよ」とせっつかれた。

久しぶりに会った幸田くんは、まだ幼い自分の息子について熱く語っていた。
何度も何度も、結婚しろ、披露宴には絶対おれを招待しろ、と言われた。

そして、私が退職した翌06年、幸田くんはピック病を発症した。
前頭葉が萎縮し、この部位が司る様々な機能が滞って、やがて全身の衰弱が進行してゆく。

私が退職した06年5月の少し前、幸田くんに医師の診断が下り、彼は勤めていた会社を休職。
当時、勝岡くんを含む仲のいい同級生同士で集まったときには、早くもまともな会話を交わすのが難しい状態になりつつあった。

07年、幸田くんのお母さんは実家に息子を連れ帰り、広島や愛媛の病院でピック病の権威と言われる医師に診せている。
その年の暮れ、私は幸田くんに会うため、27年ぶりに安古市高校の近くにある彼の実家を訪れた。

幸田家がある住宅街。画像奥の校舎が安古市高校
ガラケーで撮った画像を2代前の旧サイトから転載

それから2年後、幸田くんは終末医療を行う病院で亡くなった。
お母さんのたっての要望により、住職の勝岡くんがお経を詠んだお通夜と告別式に、私は列席していない。

自分でも薄情な男だと思う、許してほしいと、旧サイトには綴っている。
その年の暮れ、かつて何度も通った幸田家にまた足を運び、線香をあげた。

そのとき、お母さんに手渡されたのが一枚の図書カードである。
そこには、幸田くんが生前、宮崎・日南海岸の「鬼の洗濯板」を写生した絵画が使われていた。

絵を息子が描き、「友情に感謝」というメッセージを母が託した
ガラケーで撮った画像を先代旧サイトから転載

幸田くんは絵画に秀でた才能を持ち、京産大では美術部の部長を務めている。
長年、プロ野球取材を続けている私にとっても、キャンプ地の宮崎や日南は馴染み深い土地だ。

これは使えないなあ、と思った。
一周忌、三回忌、七回忌と節目の年が訪れるたび、私は年末に帰省した際、幸田家を訪ねて線香をあげている。

そのとき、いつの年だったかは判然としないのだが、私は「あの図書カードは使えないんです」と、幸田くんのお母さんに打ち明けた。
すると、お母さんは思いのほか毅然とした口調で、こう言われた。

「どうしてですか? 使ってくださいよ、ぜひ使ってください。
みなさんにお役立ていただくためにつくった図書カードなんですから」

それからしばらくして、私は東京の書店に行き、図書カードで文芸書を買った。
幸田くんのお母さんが亡くなったと聞いて、真っ先に脳裏に浮かんだのは、図書カードを使ってと、優しいながらも強い口調で言っていた、あの声である。

いまも安古市高校の校舎が立つあの土地が、これでまた遠のいたと感じました。
謹んでご冥福をお祈りします。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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