『「仮面」に魅せられた男たち』牧村康正 協力:山田哲久😁😢😳🤔🤓

講談社 第1刷:2023年3月23日 定価2000円=税別

庵野秀明が監督、脚本を手がけた『シン・仮面ライダー』と同じく、『仮面ライダー』第1シリーズ(毎日放送、東映、1971〜73年)50周年を記念して企画されたノンフィクション。
巻頭インタビューから庵野が登場し、少年時代にオンタイムで観た『仮面ライダー』がいかに衝撃的で、何に惹かれて大人になってからも繰り返し観るようになったか、熱く語るくだりから一気に引き込まれる。

僕は『シン』を映画館で観たあと、YouTubeで公式無料配信されている第1話『怪奇蜘蛛男』、第2話『恐怖蝙蝠男』を改めてチェックしてみた。
当時のドラマの内容を久しぶりに再見して初めて、庵野が『シン』の随所にオリジナル版のディテールやテイストを取り入れていることを知った。

それと同時に、庵野がいかに『仮面ライダー』を愛し、作品内容をリスペクトしていて、この昭和のテイストを令和のファンに届けるにはどうすればいいのか、大変綿密な検証と考察を行い、試行錯誤を重ねていたことが察しられた。
では、そのオリジナル版は実際のところ、どんな人間たちがどんなところで作っていたのか、綿密な取材と検証で綴ったのが本書である。

庵野が『シン』の製作を始めるにあたり、まずお参りをしたというのが『仮面ライダー』が作られていた東映生田スタジオの跡地。
当時、岡田茂社長の元、ヤクザ映画やアクション映画で隆盛を極めていた東映にあって、映画製作の本拠地だった東京・大泉、京都・太秦とはかけ離れたところに建てられた廃屋(と言っては言い過ぎかもしれないが、そのようにしか読めない)同然のスタジオだった。

この時代、『仮面ライダー』のような子供向け番組は業界で「ジャリ番」と呼ばれて蔑まれており、そんなドラマを作るために生田に集まってくる人間たちも、元ヤクザや学生運動家崩れが珍しくなかった。
そうした言わば負け犬たち、食い詰め者たちを一手に束ね、『仮面ライダー』の制作に猪突猛進したのが内田有作という人物、巨匠・内田吐夢の息子である。

予算も人手も足りず、トラブルやアクシデントの絶えない状況の連続で、とても「子供に夢を与える変身ヒーローもの」の現場とは思えない。
ライダーがトランポリンで空中回転するアクション、ライダーキックという必殺技も、製作費のかかる武器や小道具が使えないため、苦肉の策として内田が考案したものだという。

地方へロケハンに行く予算もなかったから、ライダーとショッカー怪人、戦闘員との格闘場面はいつも東京郊外の殺風景な造成地ばかり(生田スタジオ自体がそもそもそういう場所にあったのだが)。
ライダーとショッカー怪人との格闘シーンの最中、ライダーのマスクから顎の部分が落ちてしまった、などという情けないエピソードもある。

しかし、内田有作をはじめとする生田スタジオの男たちには間違いなく、ライダーで一発当ててやろう、誰にも作れなかったものを作ってやろう、という気概とエネルギーが感じられた、
そうした中には、サラセニアン、モグラング、ザンブロンゾ、ガマギラーなど、次々に優れた怪人のビジュアルとネーミングを考え出した造形の天才・高橋章もいる。

昭和のライダーブームが終わりを告げたころ、内田有作は東映を離れ、晩年は大日本印刷関連会社の警備員をして糊口を凌いでいた。
それでもライダー関連のマスコミの取材には積極的に答え、ファンとの集いにも意欲的に参加していながら、東映と袂を分かった理由はついに一言も明かさず世を去ったという。

読み終わったあと、実は、仮面ライダーの正体は内田だったのではないか、という感慨が湧く。
オンタイムでライダーの洗礼を浴びた僕と同世代のファンは、本書を読まずしてライダーを語るなかれ、と言いたい。

😁😢😳🤔🤓

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スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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