『街の灯』(NHK-BSP)🤗

City Lights 
87分 1931年 アメリカ=ユナイテッド・アーティスツ 日本公開:1934年

長らく頑なにトーキー映画を忌避していたチャップリンが、初めて音声入りのサウンド版として製作したコメディーの古典。
俳優のセリフはすべて字幕で表現されるが、全編に渡って哀愁溢れるクラシカルなテーマ曲が流れ、要所要所で様々な効果音が使われている。

チャップリンが本作の製作に取りかかったのは、1926年にトーキー映画の製作が始まってから2年後、瞬く間にサイレント映画が過去の遺物として押しやられ、ハリウッドの業界全体が時代の転換期にあった1928年。
サイレントのパントマイムで一時代を築き、自他ともに認める喜劇王となったチャップリンは、これからは音声を入れるべきだ、そうしなければ誰も観に来ない、という周囲の関係者の声に悩み抜いたと伝えられる。

その結果、主要登場人物のセリフやナレーションに当たる部分は字幕で表現するが、全編に渡って音楽を入れ、ボクシングのゴング、パーティーでチャップリンが鳴らす笛、間違って発砲される拳銃の発射音など、アクセントとなる効果音は聴こえるようなスタイルを考案。
とくに音楽に対するこだわりは強く、有名なテーマ曲『花売り娘』をはじめ、すべて自分で作曲し、編曲だけは名匠アルフレッド・ニューマンに任せたものの、録音に当たっては自分でオーケストラを指揮したという。

当時のチャップリンは私生活でもトラブル続きで、数年に渡って泥沼化していた2番目の妻リタ・グレイとの離婚裁判がようやく決着したかと思ったら、本作の撮影中に闘病生活を送っていた母親が病死。
さらに、盲目の花売り娘役のヴァージニア・チェリルが遅刻と早退を繰り返すためにいったん解雇しながら、代役が見つからないので10日後再雇用したり、富豪役のヘンリー・クライブが重要な入水シーンを嫌がったために急遽ハリー・マイヤーズに代えて大幅な撮り直しを行ったり、撮影中も揉め事が絶えなかった。

そのために撮影が遅れに遅れたにもかかわらず、チャップリンはサイレントの牙城を守ろうと気合が入り過ぎたのか、撮影ではダメ出しに次ぐダメ出しを連発。
最初にチャップリンと花売り娘が出会う場面を342回も撮り直し、全撮影日数534日のうち、実に368日をかけたというからすごい。

しかし、観終わってみると、この主人公と盲目のヒロインが知り合う僅か3〜4分のシーン、その直前の新聞売りの悪ガキにからかわれるくだりも入れると5〜6分の短い尺の間に、エンディングの再会と感動を引き立てるため、巧みに布石が打たれていることがわかる。
とくに一輪のバラと1ドル銀貨の使い方が素晴らしく、最後に花をくわえてヴァージニアを見つめるチャップリンの目が潤んでいくところは、彼のベストと言ってもいい名演。

映画評論家・双葉十三郎氏は日本劇場公開当時の批評(『西洋シネマ大系 ぼくの採点表 別巻 戦前篇』1997年/トパーズプレス収録)で、このラストシーンでチャップリンとヴァージニアが交わすごく短いセリフの字幕を、チャップリンがサイレント映画に賭けた矜持を示すものとして絶賛している。
また、ボクシングのパントマイムや2度に及ぶパーティーの場面も、現代ではさすがに大笑いする観客はあまりいないだろうが、90年以上も前の作品であることを考えると、いまでも十分通用する演出に驚嘆せざるを得ない。

トーキーの隆盛という時代の波に抗い、こういうサイレント映画を3年余りもかけて撮っているところに、改めてチャップリンの映画、笑い、ペーソスにかける人並外れた情熱と執念を見た思いがした。
だからこそ、何十年経っても、世界各国で企画される様々なオールタイムベスト100本に選ばれているのだろう。

オススメ度A。

A=ぜひ!🤗 B=よかったら😉 C=気になったら🤨  D=ヒマだったら😑

1973年 リバイバル公開時のポスター
スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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