『イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑』(NHK-BS1)🤔

50分 制作:NHK
初放送:2022年8月5日P09:10〜 再放送:6日AM9:00〜 再々放送:15日PM09:50〜

今夏、広島原爆の日と終戦の日に合わせて3度放送されたNHKのドキュメンタリー番組。
オンエアの直後、何度か観直して大変感銘を受けたのだが、9月13日に父親が他界したため、ここにレビューを記しておくのが遅くなった。

広島平和記念公園の原爆慰霊碑が建築家・丹下健三の作品であることは知っていたけれど、実は当初、イサム・ノグチが作るはずだった、ということは、不勉強にして本作を観るまでまったく知らなかった。
なぜこの慰霊碑は当時の広島に拒否されたのか、そして、それでもなお、なぜこの世界的彫刻家は生涯慰霊碑の制作にこだわり続けたのか。

昨年9月〜今年1月、ヨーロッパ最大の文化施設、ロンドンのバービカン・センターで開かれたノグチ展に、『広島の死者のためのメモリアル』(1982)という作品が展示された。
これはノグチが平和記念公園のためにデザインした原爆慰霊碑を原型としており、彼が生涯に渡ってこの作品にこだわっていたことを示している。

ノグチは1904年、アメリカのロサンゼルスで、詩人・野口米次郎、彼の作品の翻訳のアシスタントをしていたレオニー・ギルモアの間に生まれた。
ただし、ノグチが生まれたとき、野口はひとりで日本に帰国しており、日本人女性と結婚していたという。

それでもレオニーは野口を追って日本に渡り、息子のノグチを連れて茅ヶ崎に移り住む。
小学校時代は毎日のように、日本人の子供たちから「バタ臭い、バタ臭い」と言われていじめられた、というノグチの述懐が切ない。

そんな学校に通わせたくないと思ったのか、母はノグチが手先の器用なことに目をつけ、家具大工の元へ修行に出す。
ここで建具や欄干を作っていた経験が、のちに彫刻家となる基盤になったのかもしれない。

ノグチは13歳でアメリカに帰国し、インディアナ州で暮らすようになるが、アジア系の少ない中西部だったため、ここでは逆に日本人の血が混じっているからと差別やイジメに遭う。
高校卒業後、22歳で芸術家になろうと一念発起、アメリカからフランスのパリに渡り、概念を作品化する抽象彫刻のルーマニアの巨匠コンスタンティン・ブランクーシに弟子入り。

しかし、「自分は若過ぎて世界を知らないから、抽象的な表現を目指しても薄っぺらな作品しかできない」と、ノグチは僅か半年でブランクーシの元を去る。
そして、1931年、世界中を旅して13年ぶりに日本へ辿り着くと、京都の日本庭園、枯山水を見て「これが彫刻だ」と大いに感銘を受け、ついに自分の進むべき道を発見。

ノグチがアメリカに帰国し、ニューヨークでパブリック・アーティストとして人気を集めていた最中の1941年、アメリカと日本との間で太平洋戦争が開戦。
当時、強制収容所に無理矢理押し込められた日系アメリカ人の力になろうと、ノグチはアリゾナ州のポストン強制収容所に自ら入所する。

ノグチはここで日系アメリカ人たちのために、収容所の敷地内に公園、墓地、レクリエーション施設の建設などを提案するが、アメリカ当局はすべて却下。
その上、自分が同胞だと思うからこそ尽力していた日系人たちから「当局のスパイではないか」と偏見の目で見られ、ここでもまた差別と偏見に苦しめられている。

1950年、ノグチはかねてから大きな関心を寄せていた被爆地・広島を訪れ、建築家・丹下健三と運命的な出会いを果たす。
広島平和記念公園建設の中心メンバーだった丹下は、公園に通じる橋の欄干のデザインをノグチにリクエストした。

ノグチがデザインした平和大橋の『つくる』、西平和大橋の『ゆく』が高く評価されたことで、丹下はさらに原爆慰霊碑の制作をノグチに依頼する。
しかし、ノグチが広島平和記念都市建設専門委員会に設計図を提出した矢先、このデザインは唐突に却下され、ノグチにこの件を持ちかけた丹下が手がけることに決まった。

ショックを受けたノグチに、丹下は「あなたがアメリカ人だからかもしれない」と吐露。
それを証明するかのように、当時専門委員会の有力メンバーだった建築界の重鎮、東大安田講堂の設計などで知られる岸田日出刀は、「原爆を落としたのはアメリカであり、イサム・ノグチ氏はアメリカ人」「何としても日本人による作でありたい」「何を好んで、アメリカの彫刻家イサム・ノグチにやってもらう必要があるのか」と著書に書き残している。

ノグチの原爆慰霊碑の設計図は現在、ハーバード大学デザイン大学院のフランシス・ローブ図書館に所蔵されており、昨年ネットで公開された。
神奈川県立近代美術館には、1952年にノグチが作った石膏模型が残っている。

丹下の慰霊碑はコンクリート製だが、ノグチの作品は彼が惚れ込んだ日本の岩石、黒花崗岩の艶消仕上げと指定されている。
京都の枯山水に出会って以来、日本の石を素材とした数多くの作品を持つノグチは、ここでもまた石にこだわったのだ。ノグチは生涯、原爆慰霊碑の制作を諦めきれなかったらしい。
30年後の1980年、丹下作品のコンクリート製慰霊碑の劣化が目立ち、再建の計画が持ち上がると、ノグチは丹下に自ら電話をかけ、「コンクリートはダメだ、私の石にしろ」と提案した。

丹下は激怒し、一時はノグチとの関係が修復不可能なほどまで悪化したとも言われる。
果たして、ノグチの作品を葬った岸田をはじめとする委員会の判断は正しかったのか、それとも間違っていたのか。

オススメ度A。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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