『松田耕平追想録』松田耕平追想録編纂事務局・編😁😭😳🤔🤓

発行:松田耕平追想録編纂事務局 初版:2003年7月1日 非売品 撮影:ビブリオ

前項『マツダとカープ 松田ファミリーの100年史』(安西巧著、新潮新書)の巻末に参考資料として挙げられていた一冊で、2002年に逝去した松田耕平の一周忌を記念して2003年に刊行されている。
非売品なので書店に並ぶことはなかったが、僕は2015年、たまたま神保町のスポーツ専門古書店〈ビブリオ〉に状態のいいものが入荷したと店主に聞き、いつか何かの役に立つかもしれないと思い、購入しておいた(値段は失念)。

「企業人」「野球人」「広島人」の3部構成になっていて、それぞれのカテゴリーでゆかりの深い人たちが生前の松田耕平との交流や思い出を語っている。
原稿の本数は「企業人」20本+座談会2本、「野球人」37本+座談会2本、「広島人」25本+座談会2本と、やはり「野球人」のボリュームが最も大きい。

古葉竹識、山本浩二、衣笠祥雄、外木場義郎、三村敏之、山本一義、池谷公二郎と、カープOBの錚々たる顔ぶれが寄稿している中で、個人的に最も興味深かったのは、駆け出しの野球記者時代に大変お世話になった長谷川良平さんの一文だった。
良平さん(と、あえて生前の呼び方を使わせていただきます)は身長167センチと、当時でもプロ野球選手としては大変小柄な体格、かつあまりの弱さに「お荷物球団」と呼ばれた時代のカープで、通算197勝を挙げた、言わばカープの初代エース投手。

性格は非常に温厚で、若い選手の面倒見もよく、OB会長時代には〝問題児〟扱いされていた高橋慶彦さんを可愛がり、何かと批判されるたびによくかばっていたものだ。
1989年ごろ、良平さんと夜の流川を歩いていたら、「良平さーん!」と声がかかり、そちらを振り返ったら、真っ白なポルシェ(だったと記憶するが、フェラーリだったかな?)の向こう側で慶彦さんが手を振っていた、なんてこともありました。

そのとき、良平さんが「プロ野球のチームにゃ、ああいうガンボ(広間弁でやんちゃ坊主、聞かん坊などの意)がおったほうがええんじゃ」とシミジミ語っていたことが忘れられない。
そんな良平さんがカープの選手、コーチ、監督を務めていたころは、松田耕平に対して「一野球人にすぎない私が失礼を省みず意見具申をし、激論に及ぶことも何度かあった」と、この追想録には書かれている。

コーチ時代は一心不乱に選手の指導に入れ込むあまり、オーナーの耕平が日南キャンプを視察に訪れても挨拶せず、トレードについても実績より将来性を重視した選手を取るべきだと耕平に主張。
しかし、それもこれも良平さんがカープを愛するあまりの言動だと理解していたのか、耕平オーナーは亡くなる前年の2001年、良平さんの殿堂入りパーティーの発起人になり、病身を押して出席している。

また、耕平オーナーには埋もれた逸話も少なくない。
ドミニカに選手育成のためのカープ・アカデミーを1990年に創設したことはよく知られているが、その20年前にはいち早くアメリカの教育リーグに監督、コーチ、選手を派遣していた。

1970年、ヒューストン・アストロズの教育リーグに山本浩二、山本一、衣笠、三村らを参加させたのを皮切りに、1971年はミルウォーキー・ブリュワーズに若手選手を、1972年にはクリーブランド・インディアンスは総勢43人をチームぐるみで派遣。
「野球人」の巻末対談にも登場している衣笠は、そうした耕平オーナーの進取の精神が1975年の初優勝に礎となった、と語っている。

そんなふうに、50代以上のカープファンには様々な再発見ができる大著。
非売品なのが残念だけど、たまにネットオークションに出されることもあるようです。
(一部敬称略)

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スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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