西武・内海、今季2度目の先発で1勝目、本拠地1勝目、移籍後2勝目、通算135勝目⚾️

試合開始直前、投球練習をする内海

僕のプロ野球取材歴の中で、内海哲也は節目の年に位置している投手である。
僕が古巣の日刊現代を退職し、一介のフリーライターとして巨人戦に足を運ぶようになった2006年、内海は自身初の2桁勝利(12勝)を挙げ、先発の柱のひとりとして認められた。

ただし、原監督の2度目の復帰1年目だったこの年は、交流戦からチームが失速し、4年連続リーグ優勝を逃して、最後にはBクラスの4位。
先発ローテーションの一角を担っていた内海も、黒星が先行して12勝14敗と、まだエースと呼ばれるまでには至っていない。

しかし、ここからコンスタントに2桁の勝ち星を稼ぐようになり、2度のリーグ3連覇(2007~11年、2012~14年)と2度の日本一(2009、12年)に貢献。
2007年には最多奪三振(180個)、2011、12年には最多勝(18、15勝)のタイトルも獲得している。

僕自身は当時、内海にインタビューをしたり、グラウンドで話し込んだりしたことは一度もなく、囲み取材で何度か質問をした程度の記憶しかない。
が、内海の評判なら、チームメートの選手や首脳陣からしょっちゅう聞かされていた。

後輩の選手たちが言うには、「面倒見がいい」「人間としての器が大きい」「人の悩みや悔しさを自分のこととして考えられる」等々。
巨人で年俸4億円の4年契約を結んだ2013年シーズンオフ、ジャイアンツ球場でひとり黙々と走り込んでいる内海の姿を見て、ヘッドコーチだった川相昌弘はこう言っていた。

「内海は、人の面倒は見ても馴れ合ったりせず、自分のことは自分でしっかりやっている。
自分がやるべきことは何かをきちんと理解して、ひとりで練習に励んでいる。

だから、4億円ももらえるような投手になったんだよ。
若い人たちも、内海の世話になってるだけじゃなく、ああいう姿勢を見習わなきゃいけない」

ところが、皮肉なことに、内海の低迷期はこの翌年から始まった。
2014年以降は2桁勝つことができなくなり、4年契約が切れた17年に大幅減俸を余儀なくされ、18年シーズンオフには巨人にFA移籍した炭谷銀仁朗の人的補償で西武に移籍。

移籍1年目の2019年は左前腕の故障により、プロ生活16年目で初めて一軍登板無しに終わった。
それでも西武に契約を切られず、今季もまだ5000万円以上の年俸をもらっているのだから、十分恵まれた環境にあると言っていいかもしれない。

ただ、今季未勝利で2度目の先発マウンドに上がった内海の姿からは、何としても今季初勝利、移籍後2勝目をつかみ取ろうという必死さと執念が伝わってきた。
すでに往年のキレや球威は無く、初回早々にソトのタイムリーで先制点を献上し、味方が逆転してくれたあとも牧に2ラン本塁打を浴びて5-3と2点差に追い上げられている。

それでも、勝ち投手の権利がかかっていた五回2死二塁、ソトをレフトフライに仕留めた瞬間、内海は左手でグラブをたたき、拳を突き上げるガッツポーズ。
まるで野球少年のような喜びようだった、という古臭くて陳腐な言い回しが、これほどピッタリと当てはまる場面を見たのはいつ以来だっただろう。

ちなみに、本拠地メットライフドームではこれが初勝利で、通算では135勝目。
内海は試合後、岸、柘植に続いてヒーローインタビューのトリでお立ち台に登場、マイクを手に喜びを語っていたが、仕事の都合でじっくり聞くことができなかったのは残念だった。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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