BS世界のドキュメンタリー『イラク崩壊・政治の舞台裏』(NHK-BS1)🤔

Iraq,Destruction of a Nation
45分(オリジナル版60分) 2021年 制作:フランス=Tohubohu/Slug News
初放送:2021年4月2日(金)午前0時10分〜55分
再放送:同年4月19日(月)午後3時5分〜3時50分

1990年8月2日、イラクのサダム・フセイン大統領によるクウェート侵攻から始まった湾岸戦争は、翌91年、アメリカの〝パパ〟ブッシュ大統領率いる多国籍軍がイラクを制圧して終結した。
軍事大国アメリカが全世界に対して圧倒的なパワーを見せつけると同時に、そのアメリカに刃向かうイスラム過激派を産む土壌ともなった戦争である。

果たして、あの戦争で責められるべきは、すでに処刑されたフセインだけだったのか。
多国籍軍を編成してイラクを占領したアメリカをはじめとする戦勝国の欧米列強に、まったく責任がないと言い切れるのか。

フランス製ドキュメンタリーの本作は、当時の同国で外務大臣を務めていたロラン・デュマのインタビューから始まる。
彼の証言によれば、「当時のミッテラン大統領は、イラクがクウェートの周辺諸国を次々に侵略し、石油資源をめぐる世界戦争を仕掛けてくると確信していた」という。

実はそのとき、アメリカのブッシュはすでにイラクへの出撃態勢を整えており、水面下でミッテランに相談を持ちかけ、米仏共同戦線を張ることで基本的に合意していた。
ミッテランの命を受けたデュマ外相は、極秘裏にアメリカとの協力態勢作りに取り掛かったが、この工作はフランス国防相のジャン・ピエール・シュベヌマンにすら伏せられていた、とシュベヌマン本人は証言している。

アメリカとフランスの主導により、国連安保理はイラクへの経済制裁を承認し、イラクを事実上、国際社会から締め出してしまう。
このときもまだ、イラクのクウェート侵攻問題を外交交渉によって解決できると思っていたシュベヌマン国防相は、ミッテランが「戦争以外に解決の手段はない」と言い切ったことに大きなショックを受けた。

これは将来、宗教戦争に発展しかねないという危機感を覚えたシュベヌマンは、イラクとの開戦を思いとどまるようミッテランに進言。
しかし、ミッテランは「アラブ諸国は大袈裟に泣き喚くだろうが、すぐにこちらの言いなりになる」と、一顧だにしなかったという。

一方、ソ連の後ろ盾を得られなかったイラクは、クウェート在住の外国人たちを人質に取り、いわゆる〝人間の盾〟作戦を敢行。
数百人の人質解放をフセインに求めたイラク駐在アメリカ外交官ジョセフ・ウィルソンの交渉が失敗すると、イギリスのサッチャー首相も「そんな卑劣な手段を取る相手に応じるつもりはない」と表明する。

実際にイラクへの大がかりな空爆作戦を立案、訓練の指揮に当たったのは、アメリカの中東派遣軍司令官ノーマン・シュワルツコフ大将の下、戦略担当を務めていたバスター・グロッソン中将だった。
アメリカ兵が半数以上を占める多国籍軍はイラクへの侵攻前、サウジアラビアに駐留し、その指揮を取るシュワルツコフをサファド国王が歓迎したことがアラブ諸国の人々の反感と買う。

イスラム教の聖地メッカがあるサウジアラビアに異教徒のキリスト教徒の侵入を許し、あまつさえ歓迎するとは何事か。
とりわけ強い反発を示したのが、当時国王に虐げられており、のちに武装テロリスト集団アルカイダの首領として同時多発テロ事件を引き起こしたオサマ・ビンラディンである。

フランスのシュベヌマン国防相が懸念していた通りの事態に、アメリカ国民からも戦争を回避すべきだ、アメリカは中東から撤退するべきだという声が上がり、ワシントンでデモ活動が行われる。
そうした最中、ワシントンでの連邦議会にクウェートから亡命したという現地の看護師ネイラが出席し、「イラク兵は生まれたばかりの新生児を保育器から取り出し、床に放置して殺した」と涙ながらに訴えた。

ところが、シュベヌマンが苦笑いしながら語ったところによれば、ネイラは亡命した看護師などではなくクウェート大使の娘で、証言の前にアメリカのコンサルティング会社から偽証の指導まで受けていたという。
この大がかりなペテンの黒幕だった(としか考えられない)ブッシュは、事あるごとにナイラの証言を引用し、国内はもちろん、国際世論をも開戦へと誘導していったのだ。

そこまで悪どいことをして戦争を断行したブッシュ、ミッテラン、サッチャーらの目的は何だったのか。
子供にでもわかることだが、「彼らの目当てはアラブ諸国の石油資源、すなわち金だ」とシュベヌマンは断言している。

こうしてついに1991年1月17日に湾岸戦争が始まると、グロッソン中将が定めた狙い通り、多国籍軍の空爆部隊はバグダッドの発電所、給水設備、鉄道網など、重要なインフラ設備を徹底的に破壊。
ライフラインを断たれたイラク国民が悲鳴をあげる中、ブッシュはイラク国内のシーア派やクルド人に、「スンニ派のフセインを打倒しよう、そうすれば戦争は終わる」と、何とも虫のいい呼びかけを行い、武器の提供まで行った。

しかし、フセインがすぐさま反撃に出て、推定で5万人ものシーア派やクルド人を虐殺し、イラク国内が内戦状態に入ると、アメリカは手のひらを返して反フセイン勢力への援助を打ち切ってしまう。
1991年2月28日、戦争が圧倒的軍事力を誇る多国籍軍の一方的な勝利に終わったとき、犠牲者はイラク軍10万人、多国籍軍450人。

イラク人の商店経営者ムハンマド・ザキは、「戦争で犠牲になるのは兵士と市民だけ、破壊された国土もそのままだ」と憤る。
国連決議によるイラクへの禁輸措置は戦争終結後も継続しており、発電所の復旧に必要な資材が輸入できないため、「戦後30年経ったいまも電力を50%まで取り戻すのがやっと」だと電気技師モファク・サディク・ムハンマドは証言する。

電力不足で下水処理施設が機能せず、禁輸措置で塩素が輸入できないため、チグリス川もユーフラテス川も深刻な汚染が進んでいる。
貧しい家庭の母親たちはこの汚染された水で溶いた粉ミルクを赤ん坊に飲ませるしかなく、「戦後2カ月でコレラが広まり、その後は腸チフスやマラリアが流行して、糖尿病も急増し、栄養失調で痩せ細った幼児が次々に死んでいった」と、小児科医時アド・アル・ハンマディは語る。

こうした悲惨な事態が続いていた1995年1月、ニューヨーク・タイムズは「禁輸措置のために死亡したイラク人の子供は、湾岸戦争終結から4年間で5万7600人に上る」と報じた。
それにもかかわらず、共和党のブッシュから民主党のクリントンへと政権が代わったアメリカは、まだフセインが大統領の座にあったイラクが「大量破壊兵器を隠し持っている」と主張して圧力を強める。

1996年には、アメリカとイギリスが共同で「軍事利用や兵器開発につながる薬品や物資をイラクが輸入することを禁じる」法案を国連に提出して採択される。
禁輸の対象となった薬品の中には、汚染水を消毒する塩素に加え、感染症を予防するワクチン、トラクターのエンジン、救急車の無線設備まで含まれていた。

国連のイラク人道調整官を務めたドイツ人ハンス・フォン・スポネック、アイルランド人デニス・ハリデーのふたりは、イラク国民のために禁輸措置を緩和するよう国連本部で訴える。
しかし、事務総長から返ってきた言葉は「きみたちはフセインに取り込まれてるんじゃないか」というものだった。

その後、ジョージ・ワシントン大学のトマス・ナジー教授は、アメリカ国防情報局に保管されていた文書を発見。
そこには、多国籍軍によるインフラ設備の破壊、浄水処理に必要な物資の禁輸がイラクにどのような感染症を広めるか、多岐に渡って詳細に予測、分析した内容が記されていた。

つまり、アメリカは自分たちがイラクに対して行った空爆や経済制裁が罪もない国民にどれほど悲惨で残酷な事態をもたらすか、すべて承知の上だったのだ。
ブッシュもクリントンも、当然シュワルツコフも、そしてグロッソン中将も本作のインタビューで「もちろん知っていました」と明言している。

その結果、イラク国内で命を奪われた子供は推定で35万人に上る、と本作は主張している。
イラク国内の反米デモで掲げられたプラカードには「50万人の子供が死んだ」とも書かれていた。

34年間も勤務した国連を辞職したハリデーは、「イラク国民を虐殺したのはアメリカだけではない」と言う。
「アメリカが訴えたイラクへの禁輸措置を肯定した国連もまた、虐殺に加担したのだ」と。

ここまで虐げられたイラクに対して、ブッシュの息子がさらなる戦争を仕掛けたことを思い返すとき、改めて靴をぶつけたくなるほどの憤りを覚えないではいられない。
と同時に、元国連のスポネックやハリデー、大学教授のナジーがイラクの問題を世界に訴え続けているにもかかわらず、ほとんど反響がないまま今日に至っている、という現実にも慄然とさせられる。

オススメ度A。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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