BS1スペシャル『果てなき殲滅戦〜日本本土上陸作戦に迫る〜』(NHK-BS1)😉

50分 初放送:2020年8月15日(土) 午後10:00~午後10:50

終戦75年目の特別企画として制作され、終戦の日の8月15日に放送されたドキュメンタリー。
75年前のこの日、もし日本政府がポツダム宣言を受諾せず、なお徹底抗戦を続けていたら、アメリカ軍は日本にどのような攻撃を加えていたのか。

ポツダム宣言が伝えられたのちも降伏しようとしない日本に対して、アメリカは広島、長崎へ原爆を投下。
これで敗戦は事実上決まったかに思われたが、阿南惟幾陸軍大臣をはじめとする軍部は無条件降伏を潔しとせず、天皇制を中心とした国体護持を訴え、かくなる上は本土決戦もやむなしと主張していた。

そうした日本の態度に、米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルはまた新たに、徹底的に日本を叩きのめす〝殲滅作戦〟を立案。
その名も「オリンピック作戦」というネーミングが、東京オリンピックが延期になったいまになってみると、何とも皮肉な響きを帯びる。

NHKはバージニア州にあるジョージ・マーシャル資料館を訪問、彼が生前インタビューに答えたテープを再生。
そこに録音された肉声の内容には改めて驚かされた。

「アメリカ軍は9個の原爆を準備していて、九州南部(鹿児島)への上陸作戦に間に合うはずだった。
この作戦が実現していたら、恐るべき事態になっていただろう」

これがオリンピック作戦である。
投入を予定していた兵士の数は76万6700人というから、1944年6月6日に決行されたノルマンディー上陸作戦をはるかに上回り、こちらが『史上最大の作戦』(1962年、ノルマンディー上陸作戦の映画化作品の邦題)になっていただろう。

米海軍は鹿児島の吹上浜や志布志湾、宮崎の青島海岸あたりの三方から九州南部に上陸して飛行場を建設し、東京へ爆撃機を飛ばして壊滅的打撃を与える計画だった。
作戦決行日も1945年11月1日と、具体的な日付まで決まっていた。

米空軍は作戦決行を前に、鹿児島に対して何度も激しい爆撃を加えていた。
当時、鹿児島にあった特攻隊が出撃する飛行場を破壊し、オリンピック作戦決行の前に九州上陸時の抵抗を極力抑えるためである。

この空襲に使用されたのは、1000ポンド高性能爆弾という大変殺傷能力の高い爆弾だった。
1945年7月、川内(せんだい)市で左足を失った81歳の女性、鹿児島駅で母と妹を亡くした80代の鹿児島市民たちがインタビューに答え、当時の経験を生々しく語っている。

志布志市では米軍の上陸に備えて地下壕が掘られ、全長16㎞に及ぶ通路がまるで網の目のように張り巡らされていた。
沖縄で地下壕での戦いに苦戦し、約5万人の死傷者を出していた米軍は、ジュネーブ条約で禁じられていた毒ガス兵器の使用まで検討している。

アメリカ側の研究者、中央フロリダ大学のトーマス・ドーラン准教授は、太平洋戦争でアメリカ側の犠牲者が約15万人に上っていたことから、マーシャルも早く戦争を終結させるよう世論と政府に迫られていたことを指摘。
「戦争をより早く、より低コストで、これ以上犠牲者を増やさずに終わらせるには、化学兵器や原爆を使うべきだとマーシャルは思うようになった」という。

一方、日本軍は米軍の総攻撃に抵抗するため、全国に散らばっている兵士60万人を九州南部に集結させ、九州全土に40もの特攻基地を作る「決号作戦」を推進。
これを知ったマーシャルは、ついに3発の原爆の投下を決断する。

前出のテープに収められたマーシャル自身の声によれば、「九州南部への上陸前にまず1発、援軍に来る日本軍にもう1発、さらに山を越えて来る日本軍に3発目を投下する計画だった」。
しかし、これでは戦地の米軍にも相当数の被爆者が出ていたはずで、いまとなってはアメリカのためにもオリンピック作戦が決行されなくてよかった、というほかない。

マーシャル自身は同じインタビューの中で「被爆については十分注意していた」と言うが、NHKのドキュメンタリーならこの杜撰さと乱暴さをきっちり指摘するべきだろう。
また、この日本をさらなる焼け野原にしようとした軍人が、のちにマーシャル・プランによって欧州復興に尽力し、ノーベル平和賞を受賞しているという皮肉な事実も付け加えておいてほしかった。

オススメ度B。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』、WEDGE Infinity『赤坂英一の野球丸』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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