「原爆の日」75年目に思うこと

昨年9月1日、原爆資料館の窓から撮影

今年もまたこの日がやってきました。
例年、この日だからと特別なことを書く習慣はないのですが、今年は75回目の節目でもあり、個人的な思い出などを綴ってみます。

僕や両親は竹原市出身で、親族に直接被爆した人間はいないけれど、入市被爆した親戚はいる。
母方の伯父には何度か話を聞き、成人してからもう一度詳しく聞き直したい、と思ったときには、もう帰らぬ人となっていました。

小学1年から予備校で1浪したころまで広島市内で暮らしていた関係で、被爆二世の同級生も少なくない。
2011年に東日本大震災で福島の原発事故が起こったときは、たまたま岩手に単身赴任していたそんな同級生のひとりと、原爆について改めて話す機会もあった。

その2年後、2013年に上梓した『広島カープ論 蘇る赤ヘル』(PHP研究所)の冒頭と巻末に書いた僕の原爆観は、そんな幼少期や青春期の思い出がベースになっています。
山本浩二さんに幼少期の被爆体験を、前田健太さんに初めて原爆資料館を訪ねたときの感想を聞き、要所要所で彼らのコメントを挟み込んだ。

いまさら拙著の宣伝としてこんなことを書いているわけではありません。
ただ、ぼく自身が広島出身で、刊行が原爆の日の約2週間前になるとあらかじめわかっていたことから、8月6日に書店に並んでいても恥ずかしくない本にしよう、と意識していたことは確かです。

それからまた2年後、原爆投下から70年目となった2015年8月6日は、久しぶりに広島で迎えました。
この日に爆心地のすぐ近くにいたのは、確か学生時代以来だった。

その夜は、マツダスタジアムでの広島−巨人戦が平和を祈念する「ピースナイター」として開催。
広島出身で被爆2世のプリマバレリーナ森下洋子さんが試合前に平和を願うメッセージを読み上げ、カープの全選手が「PEACE86」のユニフォームを着てプレーしている姿を、僕は記者席から見ていた。

さらに、それから4年後の昨年は、きょうではなく9月1日、全面的にリニューアルされた原爆資料館に足を運びました。
そのときの感想は2019年9月1日付Blog記事に書いたので、少しでも興味のある方はぜひ御一読ください。

いま思うと、去年のうちに資料館へ行っておいてよかった。
今年はコロナ禍のおかげで、竹原への里帰りすら憚られる状況だからなぁ。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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