『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル😁🤓🤔😖

Rayuela 集英社(全集・ラテンアメリカの文学全第8巻) 485ページ 
翻訳:土岐恒二 第1刷:1984年6月15日 
原著発行:1963年 邦訳初版発行:1978年(全集・世界の文学第29巻) 

本書は1984年、集英社から発行された全集〈ラテンアメリカの文学〉第8巻。
1982年に『百年の孤独』(1965年)のガブリエル・ガルシア=マルケスがノーベル文学賞を受賞したことから、わが国にもラテン・アメリカ文学のブームが到来し、集英社が全18巻の刊行に踏み切った。

当時はぼくもラテン・アメリカ文学の土着的にして幻想的、かつSF的でもある作品群を読み漁っていた最中。
集英社の全集も配本されるたびに少ない小遣いをやりくりして購入していたが、この『石蹴り遊び』は買ったものの、本書は二通りの読み方があるという序文を読んだだけで怖気を催し、そこから先のページを繰れなかった。

それが、購入から35年以上たった昨年末、なぜ一念発起して読もうと思ったのか、自分でも説明がつかないのだが、ともかくどうにか通読にはこぎつけた。
読み始めが12月28日、読了が1月12日と、ぼくにしては珍しく懸命に集中して読み続けたにもかかわらず2週間以上もかかったのは、この本が500ページ近い超大作で、類例がないほど複雑な構成になっていることによる。

本編472ページ、上下2段組、会話部分を除くとほとんど改行がない。
第1部〈向こう側から〉第1〜36章、第2部〈こちら側から〉第37〜56章、第3部〈その他もろもろの側から〉第57〜155章という全3部155章で構成されている。

著者フリオ・コルタサルは冒頭の〈指定表〉で、「2冊の書物として読むことができる」として、以下のような読み方を示している。
1冊目の書物は第1部と第2部を最初から通読して第3部は読まなくてもよく、2冊目の書物は第3部の第73章から始めて著者の指定した通りに各章を行ったり来たりしながら読み進める、というものだ。

主人公はアルゼンチンからパリに留学しているボヘミアン学生、オラシオ・オリベイラ。
第1部ではオリベイラが追いかけているシングルマザーの娼婦ラ・マーガ(ルシア)との恋愛、彼らを取り巻く知人友人たちが形作る〈クラブ〉での人間模様、そして彼らが語る哲学的、文学的、形而上学的な様々な思索が綴られる。

著者の興味は文学のみならず、ジャズ、スポーツ、日本の禅など、まるでねずみ花火のように様々な分野に飛び火。
トルストイ、ビオイ=カサーレス、ルイ・アームストロング、スタン・ゲッツ、さらにはルイゾン・ボベ(フランスの伝説的自転車プロロードレーサー)といった名前が、何の脈絡もなく、大きなキャリーバッグの中身をひっくり返したかのように、ひとつのダイアローグの中にごちゃごちゃにしてぶちまけられる。

この第1部はラ・マーガの幼い一人息子、ロカマドゥールが突然病死することによって終了。
第2部ではブエノスアイレスに帰国したオリベイラと、サーカス団で働く友人マヌエル・トラベラーと彼の妻タリタとの交流が語られる。

そのサーカス団の座長が経営権を他人に売り渡したため、サーカス団はいきなり精神病院へ変わる。
オリベイラは看護士として働きながら、タリタにラ・マーガの面影を見、トラベラーが実は自分のドッペルゲンガーではないかと思い込むようになるが、明確な答えが出されないままに第2部は終わり、これで「1冊目の書物」としては読了。

第3部第73章から始まる「2冊目の書物」は、基本的には第1〜2部と続く直線的な展開を踏襲しながら、第3部の様々な章に飛んだり寄り道したりする。
それも116→3→84→4→71→5→81→74→6と順番に一貫性がなく、第3部以降の各章に書かれている内容にも関連性がないように見えるため、最初のうちはいささかならず混乱した。

しかし、読み進めるうち、これは同じアルゼンチンの作家マヌエル・プイグが、『蜘蛛女のキス』(1976年、邦訳1984年=ラテンアメリカの文学第16巻)でヘルベルト・マルクーゼの新左翼思想を語った手法に通じているのではないか、と思い当たった。
すると、一見行き当たりばったりに展開しているように見えた第3部に、新たなキャラクターとしてモレリという老作家が登場、この人物がマルクーゼに相当していることがわかってくる。

とくに、第79章におけるモレリの覚書は、極めて明確に本書の性格と構造を教えてくれる。
以下に重要な部分を引用したい。

「だらしのない、八方破れの、不適当な、細部に至るまで反小説の(反小説的なというのとは違うが)本文を誘い出し、引き受けること、細部によって必要なら、小説というジャンルのもつ大きな効果を自らに禁ずることなく、後天的に得た飛躍をけっして利用しないことというジッドの忠告を思い出そう。
西欧のすべての選ばれた人間たちのように、小説は閉ざされた秩序の中で満足している」

「それと決然と対抗して、ここでもまた開かれた小説を探究し、そのためには人物(カラクテール)と場面(シトゥアシオン)とのあらゆる体系的構成を根こそぎにすること。
方法は、アイロニー、絶えざる自己批判、不適合、誰のためにも奉仕しない想像力」

「この種の試みは文学を拒否することから出発する。
言語に依拠するからには部分的な拒否であるが、作者と読者が企てるどんな操作にも目を配っていなければならない」

さらに第109章では、オリベイラ、もしくは著者が、モレリの作家としての姿勢を分析し、批評するくだりがある。
この二重、三重の構造がわかってくると、さらに本書への理解が深まる。

「ある個所でモレリは彼の物語の支離滅裂ぶりを正当化しようとして、いわゆる現実の中でわれわれのもとにやってくるような他人の人生というものは、映画というよりは写真である、つまりわれわれは行動というものをエレア派的に運動から切り離された断片としてしか理解できない、と主張している。
 (中略)その本を読んでいると、モレリは断片の集積が突如としてひとつの全体的現実へと結晶化することを期待していたのだなという印象を絶えず受ける」

最近、全部読み終えた直後、これほど達成感を覚えた読書は久しぶりだった。
もう一度読み返したくなるか、と言われたら、いまはまだ結構ですと言いたいが、学生時代に読んだコルタサル の短編集は再読してみたい。

😁🤓🤔😖

2020読書目録
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※は再読、及び旧サイトからのレビュー再録

3『らふ』森下くるみ(2010年/青志社)🤔☺️
2『最期のキス』古尾谷登志江(2004年/講談社)😢😳
1『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』奥山和由、春日太一(2019年/文藝春秋)😆😳🤔

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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