『やわらかなボール』上前淳一郎

文藝春秋 文春文庫 第1刷:1986年6月25日 定価400円/古書
単行本発行:文藝春秋 1982年6月

ぼくと同世代なら、このタイトルを見ただけで小学生時代の教科書に載っていた〝美談〟を思い出す人も多いはずだ。
テニスの国際大会でアメリカの天才プレーヤーと対戦した日本人選手が、相手が転んだところへわざわざ「やわらかなボール」を打ち返し、スポーツマンシップのお手本と称えられた、という逸話である。

ぼくの記憶では、この物語は小2か小3のころ、国語か道徳の教科書に掲載されていて、日本人選手の行為は正しかったか、間違っていたか、生徒同士で議論させられている。
素直で正義漢を任じていたぼくは当然、日本人選手を支持し、「敵の弱みにつけ込んで買っても何の意味もありません」という意見を述べ、教室中から拍手喝采を浴びた(と記憶している)。

本書はそれから約10年後、ぼくが大学に進学したころになって出版された。
あの「やわらかなボール」の美談には意外な真相が隠されていたと、当時は結構評判になっていたが、ぼくは何故か手が出ず、このトシ(56歳)になってネットで古書を発見し、忘れかけていた記憶を刺激され、すぐさま取り寄せて読んでみた、という次第。

プロローグから一気に引き込まれてしまう。
著者はアメリカを取材旅行中、たまたま飛行機の座席に常備されていたテニス雑誌を手に取り、あの「やわらかなボール」が打たれた試合を回顧している記事を読んだ。

1921年、アメリカのデビスカップで前年の覇者ウィリアム・チルデンに日本人の清水善造が挑戦したこの試合で、アメリカ人で日本人嫌いのネット審判が、故意に清水に不利な判定を下していた。
もしネット審判が正しくジャッジしていれば、本当は清水が勝っていた、というのである。

以来、この審判は罪の意識に苛まれ続け、死を前にして自分の罪を懺悔する手紙を著名なスポーツライター に送った。
この記事を読んだ著者は大いに興奮し、いまこそ「やわらかなボール」の真相を発掘しようと、本格的な取材に乗り出すのだが。

いや、これほど冒頭の期待感と裏腹な結論で締め括られるノンフィクションも珍しい。
真相がわかるまでは巻置く能わず、遅読のぼくとしては久しぶりのスピードで巻末まで突進したら、そこに書かれていた種明かしにしばし呆然としてしまった。

また、チルデンが大変哀しい晩年を送っていたことも大変衝撃的。
昔の本なので差別的表現が頻出するところが気になったが、発掘系ノンフィクションの面白さを改めて教えてくれた貴重な作品である。

なお、著者の上前淳一郎さんはぼくの父親と同じ昭和9年(1934年)生まれ。
元朝日新聞の記者で、ぼくが日刊ゲンダイの記者だったころ、何度か電話でコメントをもらったことも懐かしく思い出しました。

2019読書目録
※は再読、及び旧サイトからのレビュー再録

35『愛その他の悪霊について』ガブリエル・ガルシア=マルケス著、且敬介訳(1996年/新潮社)
34『誘拐』ガブリエル・ガルシア=マルケス著、且敬介訳(1997年/角川春樹事務所)
33『エペペ』カリンティ・フェレンツ著、池田雅之訳(1978年/恒文社)
32『仁義なき戦いの〝真実〟 美能幸三 遺した言葉』鈴木義昭(2017年/サイゾー)
31『ある勇気の記録 凶器の下の取材ノート』中國新聞社報道部(1994年/社会思想社 現代教養文庫)
30『誇り高き日本人 マルカーノ選手』藤井薫(1979年/恒文社)
29『ブルース・リー伝』マシュー・ポリー著、棚橋志向訳(2019年/亜紀書房)
28『タイムマシンのつくり方』広瀬正(1982年/集英社 集英社文庫)
27『時の門』ロバート・A・ハインライン著、稲葉明雄・他訳(1985年/早川書房 ハヤカワ文庫)
26『輪廻の蛇』ロバート・A・ハインライン著、矢野徹・他訳(2015年/早川書房 ハヤカワ文庫)
25『変身』フランツ・カフカ著、高橋義孝訳(1952年/新潮社)
24『ボール・ファイブ』ジム・バウトン著、帆足実生訳(1979年/恒文社)
23『車椅子のヒーロー あの名俳優クリストファー・リーブが綴る「障害」との闘い』クリストファー・リーブ著、布施由紀子訳(1998年/徳間書店)
22『ベストセラー伝説』本橋信宏(2019年/新潮社 新潮新書)
21『ドン・キホーテ軍団』阿部牧郎(1983年/毎日新聞社)※
20『焦土の野球連盟』阿部牧郎(1987年/扶桑社)※
19『失われた球譜』阿部牧郎(1998年/文藝春秋)※
18『南海・島本講平の詩』(1971年/中央公論社)※
17『カムバック!』テリー・プルート著、廣木明子訳(1990年/東京書籍)※
16『ボール・フォア 大リーグ・衝撃の内幕』ジム・バウトン著、帆足実生訳(1978年/恒文社)
15『ショーケン 最終章』萩原健一(2019年/講談社)
14『頼むから静かにしてくれ Ⅱ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
13『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳(2006年/中央公論新社)
12『試合 ボクシング小説集』ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳(1987年/社会思想社 教養文庫)
11『ファースト・マン 月に初めて降り立った男、ニール・アームストロングの人生』ジェイムズ・R・ハンセン著、日暮雅通・水谷淳訳(2019年/河出文庫)
10『平成野球30年の30人』石田雄太(2019年/文藝春秋)
9『toritter とりったー』とり・みき(2011年/徳間書店)
8『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』津田大介(2009年/洋泉社)
7『極夜行』角幡唯介(2018年/文藝春秋)
6『力がなければ頭を使え 広商野球74の法則』迫田穆成、田尻賢誉(2018年/ベースボール・マガジン社)
5『OPEN アンドレ・アガシの自叙伝』アンドレ・アガシ著、川口由紀子訳(2012年/ベースボール・マガジン社)
4『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
3『かもめ・ワーニャ伯父さん』アントン・チェーホフ著、神西清訳(1967年/新潮文庫)
2『恋しくて』リチャード・フォード他、村上春樹編訳(2016年/中公文庫)
1『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』ティム・オブライエン他著、村上春樹編訳(2006年/中央公論新社)

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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