ゴッホ展を見に行った

平日の午後なのにチケット売り場から大看板の前まで行列が

きょう2本目のブログ記事です。
ゆうべはプレミア12の取材後、連載原稿2本を編集さんに送り、この1本前の記事をブログにアップして午前3時に就寝。

今朝10時過ぎに起床すると、朝ご飯を食べて上野の森美術館へ。
目的は以前から行きたいと思っていた、ただいま開催中のゴッホ展。

美術館の特別展示期間は大体2~3カ月ですが、これだけ長いと、そのうち行こうと思っているうちにうっかり忘れてしまい、行きそびれてしまうことも多い。
日本で人気のあるゴッホ展も、上野の森美術館だけでも3年連続で開催されているのに、一昨年も去年も見損なった。

というわけで、今回はプレミア12が終わったら翌日はゴッホ展だ! と決めてたんですよ。
月曜の午後なら空いてるだろうと思ったら、チケット売り場の前に行列ができ、館内も押すな押すなの大盛況。

美術館の特別展示には様々な趣向や演出があるけれど、今回のゴッホ展はまるで彼の伝記を読んでいるかのようだった。
27歳で画業に入ったゴッホが37歳で没するまでの10年間、どのような画家の影響を受け、どのように画風を変化させていったか、影響された画家の作品と、その影響の下に描かれたゴッホ作品を交互に展示しているのです。

ゴッホは28歳だった1881年、農夫や労働者の姿を描いたバルビゾン派のミレーに憧れ、『落穂拾い』(1857年)の複製を手本にした黒チョーク・水彩画『籠を持つ種まく農婦』を描いた。
これが今回の最初の展示作品なのだが、農婦が棒立ちになっているため、画商の弟テオに「兄さん、この格好では種を撒けないよ」と指摘されたという。

最初に師事した画家は、ミレーと同様に農夫や牧童を描いた作品が多く、暗くて素朴なタッチが特長的なアントン・マウフ。
この修行時代は灰色派とも呼ばれたハーグ派の影響が色濃く、とくにアントン・ファン・ラッパルトという画家と親しく付き合い、一緒にスケッチに出かけ、お互いに作品を批評し合う間柄だったそうです。

そのラッパルトが養老院を描いた『ウェスト=テルスヘリングの老婦たちの家』(1884年)の影響下で描かれたのが、この時代の代表作『ジャガイモを食べる人々』(1885年)。
今回はオリジナルではなく、ゴッホ自身がオリジナルを模写した小さなリトグラフが展示されている。

しかし、これはゴッホが短時間で描いたためか、まるで漫画のようで、ラッパルトはゴッホに酷評する手紙を送り、ふたりが絶縁する原因となった。
ぼく自身、このリトグラフより、ゴッホが『ジャガイモ』の準備として描いた習作『若い農婦の頭部』(1884~85年)、『農婦の頭部』(1885年)、また当時同棲していた子持ちの娼婦シーンをモデルにした『ジャガイモの皮を剥くシーン』(1883年)のほうがよく描けているように感じました。

1886年、ゴッホはハーグからパリに転居し、弟テオの部屋に転がり込んでモンティセリ、ピサロ、セザンヌ、シスレー、モネ、ルノワールといった印象派の画家たちと付き合い、その手法を習得。
とくに、タイトルにも絵具を厚塗りした描き方にも、モンティセリの『陶器壺の花』(1875~78年頃)の影響が顕著な『花瓶の花』(1886年)が印象的だ。

ハーグ派の影響から脱却した当時は色使いも明るくなり、シニャックの『レザンドリー、橋』(1886年)の点描、ゴーギャンの『水飼い場』(同)の一部に見られるストロークを取り入れるなど、画風のバリエーションが広がる。
この時代の自画像『パイプと麦藁帽子の自画像』(1887年)では自分の顔を赤、帽子を黄、シャツを青という補色で表現するなど、のちの代表作につながる技術と色使いが完成の域に近づきつつあったことをうかがわせる。

そして、ゴーギャンと共同生活を送ったタヒチのアルルで、われわれのよく知るゴッホの名作が次々に生み出されるのだ。
このコーナーでは何と言っても、目に染みるような黄色を使って描かれた『麦畑』(1888年)が素晴らしい。

ゴッホはこのアルルで有名な〝耳切り事件〟を起こしたあと、サン=レミの療養所(修道院)に入院。
この時代にも数々の傑作を残していることは、不勉強ながら初めて知った。

ゴッホ自らその出来栄えに自信を持っていた『サン=レミの療養院の庭』(1889年5月)、そしてゴッホ作品のひとつの頂点を示す『糸杉』(1889年6月)には目を奪われた。
とくに緑の厚塗りを重ねた『糸杉』の質感、重量感は圧倒的で、絵画を超えたオブジェのようにさえ見える。

今回の展示に集められたゴッホ作品は40点、そのゴッホに影響を与えた画家たちの作品が30点。
いちいちじっくり鑑賞したらぐったりするほどのスケールで、改めてゴッホの生涯を辿り直すとともに、彼の生きた時代を感じ取ることができました。

ちなみに、ゴッホが実働期間10年で残した作品は850点に上るという。
単純計算すると、年に85点、月に7点強、週に〝1点半〟以上も描いていた勘定になる。

ものすごいハイスピードと多作ぶりで、そんなに早く絵を描けるものかと思うが、今回は「駅前で待ち合わせをしているときに描いた」という『中央駅からのアムステルダム風景』(1885年10月)という小品も展示されている。
これでいいから買えないかな、と思ったけど、絶対に無理でしょうね。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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