『カシタンカ・ねむい 他七篇』アントン・チェーホフ

Каштанка,Чехов сонный

 カバーの説明文にもあるように、本書はチェーホフの短編集というより、チェーホフの研究家としても知られた神西清の名訳を編んだ一冊。
 9本の短篇とともに『チェーホフの短篇に就いて』『チェーホフ序説』と題した神西の小論2本も併録されている。

 短篇の中で面白いのは、カシタンカという犬を主人公に据えた表題作『カシタンカ』。
 漱石の『吾輩は猫である』(1905年)や井上ひさし『ドン松五郎の生活』(1975年)のように、動物の一人称による物語ではないが、犬の視線からユーモラスな人間像が楽しめる。

 チャーホフはカシタンカが気に入っていたようで、のちの『子どもたち』(1889年)など、子供を主役とした短篇にも脇役として登場させている。
 その『子どもたち』と同工異曲の作品、8歳3カ月の少年の一人称で語られる『かき』(1884年)、『少年たち』(1887年)のような郷愁と透明感を感じさせるタッチもチェーホフならではのものだろう。

 巻末エッセイ、娘・敦子の『父と翻訳』によると、神西は文学座のためにチェーホフの戯曲のほとんどを訳し、舞台公演にも深く関わっていたという。
 有名な4大悲劇はぼくも読んだが、敦子によればどれひとつとして完璧な翻訳はなく、何度も推敲、修正、書き直しを繰り返し、どれも未完成なままで今日に残されている、というのが実情だそうだ。

 正直なところ、ロシア語がわからないぼくには、神西の苦悩の深さや訳業の偉大さは理解できない。
 ただ、チェーホフのような作家に本気で関わろうとしたら、一生逃れられなくなるのだろうな、ということだけは十分に納得できる。

(発行:岩波書店 岩波文庫 翻訳:神西清 第1刷:2008年5月16日 定価:700円=税別/古書
 原語版初出:『カシタンカ』1887年、『ねむい』1888年)

2018読書目録

8『子どもたち・曠野 他十篇』アントン・チェーホフ著、松下裕訳(初出1888年~/岩波書店)
7『六号病棟・退屈な話 他五編』アントン・チェーホフ著、松下裕訳(初出1889年~/岩波書店)
6『最強軍団の崩壊』阿部牧郎(1980年/双葉社)
5『女子プロレスラー小畑千代 闘う女の戦後史』秋山訓子(2017年/岩波書店)
4『白鵬伝』朝田武蔵(2018年/文藝春秋)
3『ザナック/ハリウッド最後のタイクーン』レナード・モズレー著、金井美南子訳(1986年/早川書房) 
2『テトリス・エフェクト 世界を惑わせたゲーム』ダン・アッカーマン著、小林啓倫訳(2017年/白楊社)
1『路(ルウ)』吉田修一(2012年/文藝春秋)

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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