「黒い服を忘れんさんなよ」とお母さんは言った

赤坂家の墓がある照蓮寺 竹原の桜の名所でもある

「死亡届、市役所に出しといて」

4年前の9月、帰省する前に母と電話で話していたら、突然そんなことを言い出した。
「死亡届? 誰の?」と僕が聞き返すと、「お父さんの」と母は言う。

思わず、「お父さんは生きとる」と言い返した。
「勝手に殺すな」と。

「ああ、そうじゃったかいねえ」と答えた母は当時、すでに認知症が進行していた。
父が生きていること、今は安田病院に入院していることを何度も繰り返し強調して、会話を終えようとしたら、母がまたこう言った。

「あんた、黒い服を忘れんさんなよ。
お父さんの葬式に着て行かにゃいけんのじゃけえ」

今度は認知症の症状だとは思えず、言い返す気も起こらなかった。
お母さんは何かを予感しているのではないかと感じ、僕は翌日からの帰省に礼服を持参した。

それから10日余り後、父は本当に亡くなった。
父の火葬が終わって、母が当時入所していた施設へ帰っているタクシーの車中、母がポツリ、ポツリと語り始めた。

「お父さんはね、ホンマは毎日、わたしに会いに来とったんよ。
昼は難しいけえ、夜にこっそり、車を運転してね」

寝たきりに近かった父に、そんなことができるわけがない。
でも、「そりゃあお母さんの見た夢じゃ」とは、僕には言えなかった。

そんな母の葬式をどうするか、実際に考えざるを得なくなったのはそれから3年後、昨年の春だった。
僕がキャンプ取材で沖縄に出張していた2月、母は大腿骨骨頭壊死で安田病院に入院し、その最中に下血が始まって止まらなくなった。

母は2014年、大腸憩室炎で大量の下血を起こし、大腸を半分切除している。
以来、時々下血が再発していた中、昨年最も深刻な状態に陥って、主治医にこう言われた。

「今度、お母さんに大きな下血が起こって、血圧がドーンと一気に下がるようなことがあれば、間に合わないかもしれません。
その時がいつ来るかは、私たちにも予測できない」

お母さんにはもっともっと長生きしてほしい。
しかし、現実問題として、お母さんが生きているうちに葬儀の心積もりをしておく必要もあった。

僕は竹原市内の葬祭場を見学して回り、お父さんの時と同じ典礼会館に依頼することにした。
一日葬の家族葬で送ろうと考え、照蓮寺の住職にも相談し、「その時」に備えた。

それから間もなく、お母さんは下血が治まり、老健に帰ることができた。
一度はすべての準備が無駄になってよかった、と思った。

が、結局、去年の準備は無駄にはならなかった。
それから1年後の今年、先月29日にとうとうお母さんが逝った後、僕はかねて想定しておいた通りに一日葬の家族葬を執り行った。

4月1日の葬儀で僕が着た喪服は、4年前に母親に持ってくるよう言われたものだ。
あの母の〝助言〟は、ふたたびこういう形で役に立ったのである。

ごく親しい身内だけの葬儀は温かい雰囲気に満ち、お母さんもきっと喜んでくれたと思う。
たぶん、お父さんも褒めてくれただろう。

照蓮寺の本堂 母のお骨は今ここに置かれている

お母さんのお骨は今、照蓮寺に預かっていただいており、四十九日法要とともに、お父さんと同じお墓に納骨される。
きょう、墓参りに行くと、桜が満開だった。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。2010〜2026年、東京スポーツでコラムや野球記事を連載。 日本文藝家協会会員。Yahoo!ニュース公式コメンテーター。
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