僕はお母さんの最期に間に合ったのか

典礼会館 家族葬ホールの祭壇

母・邦子が逝ってからちょうど1週間が経った。
母が僕の目の前で息を引き取った時、母は僕がそばにいたことをわかっていただろうか、僕は母の死に際に間に合ったと言えるのか、いまだに考えている。

4年前の2022年9月13日、僕は父の死に目に会うことができなかった。
あの時、父はすでに母と同じ安田病院に入院中で、僕は同月2日に東京から帰省していたものの、当時はまだコロナ禍のため、面会はオンラインに限定されていた。

9月12日午前中、東京へ戻る前、スマホの画面の向こうにいる父に「大丈夫?」と聞くと、頭にタオルを乗せた父は黙ったまま、両手でOKサインを作った。
「じゃあ、きょう東京へ帰るけえね」と告げたら、やはり無言でバイバイと手を振った。

結局、それが父と交わした最後のやり取りになった。
翌13日、東京のマンションで朝食を食べていた時、安田病院の主治医から電話がかかってきて、「お父さんとちゃんと話をしたいのなら、今のうちに会ったほうがいい」と言う。

「もう時間の問題なんですか」と聞き返すと、「いや、まだそこまでではないと思います」という返事。
幾分かの余裕を感じてその夜の飛行機を予約し、京急で羽田空港に向かっていた夕方5時過ぎ、また安田から電話がかかってきた。

車中だったので出ることができず、羽田に着いて折りしたら、看護士が出てきてこう言った。

「もう、息をしとってんないんですよ」

父は僕にも母にも看取られることなく、たったひとりで死んだ。
父は非常に偏屈だった半面、大変な働き者で、家族思いで、決してこんなふうに人生の幕を引かれるべき人間ではなかったと、僕は愚かにも、その時初めて気づいたのだった。

あれから4年後、母との別れは父と同じように、不意に訪れた。
僕は3月15日日曜に帰省し、20日日曜にUターンするまで、17日火曜にオンラインで一度、20日金曜にもう一度、この時は老健ゆさかで直接母と面会している。

火曜にオンラインで面会した母は「あんたもおジイさんになったねぇ」と笑っていた。
金曜に直接面会した時は眠たそうで、一言も口を利かなかったけれど、僕が持参したイチゴとバナナはほとんど平らげてくれた。

これだけ食欲があればまだしばらくは大丈夫だろう。
そう思い、22日日曜に東京へ帰った翌日の23日月曜、早朝6時過ぎにゆさかから電話がかかってきた。

「赤坂さんの血中酸素濃度が急激に下がっとりますんで、これから安田へ救急搬送します」

父の時のように、夜の便で帰っている場合ではない。
僕はすぐさま月曜10時20分羽田発の飛行機をネットで取り、大急ぎで羽田に着いたら8時半前で、その場で9時台の便に買い換え、竹原に向かった。

昼前に安田の病室に着き、4人部屋の母と対面すると、酸素マスクをつけているせいもあり、口を動かしていても何を言っているのか聞き取れない。
それでも、目は僕の顔を見て、手を握ると微かながらも反応してくれた。

主治医の診断は「肺炎」で、「かなりひどい状態」だという。
この時点で、僕は新たな取材依頼を2件、丁重にお断りせざるを得なかった。

ずっと母に付き添っていたかったが、広島県にインフルエンザ警報が発出されているため、安田の面会は1日2回、1回につき15分までと制限されている。
しかも、27日金曜には僕自身が東京の慈恵医大で定期検診を受け、4種類の薬を処方してもらわなければならない。

そこで、もう一度東京と竹原を一往復し、金曜夜のうちに帰ってきた。
翌日の28日土曜、朝10時に会った母は、点滴注射を打たれ続けた手足が紫色に変色し、象のようにむくんでいた。

「ここまできたら、もういつどうなるかわかりません。
今日、明日中かもしれないし、ここ数日のうちかもしれない」

そう告げられた主治医の言葉を、頭では理解していても、まだ現実のこととは考えられなかった。

この時、一日じゅう付き添っていられる特別室が空いたと、看護士が教えてくれた。
さっそく4人部屋から特別室に移り、翌日の29日日曜、42インチのテレビでメジャーリーグ、高校野球、プロ野球のカープ戦をお母さんと一緒に観たことは、すでに当日のBlogに書いた通りである。

その夜8時過ぎ、お母さんの容態が悪化した。
ベッドのそばに置かれたモニターの脈拍、血圧、酸素濃度を示す数値が急速に低下していく。

「脈が下がっています、このままだと止まります」

「話をするのなら2人だけのほうがいいでしょう」

「赤坂さんの耳はまだ聞こえとりますから」

そう言っていた看護士の声が遠くに聞こえた。
僕はベッドの上に身を乗り出し、お母さんの目を見て語りかけた。

「お母さんが元気になったら、また美味しいもの持ってくるよ」

「あんパンでもメロンでもイチゴでもイチジクでも何でも」

「もっと元気になったら、外へ美味しいもの食べに行こうや」

「ほいじゃけえ、元気になって」

「生きとりゃあ、ええことも楽しいこともあるんじゃけん」

お母さんは何も答えてくれなかった。
ただ、薄く開けた目はじっとこちらを見上げていた。

話しかけ続けて1時間から2時間、脈、血圧、酸素の数値が、僅かながらも上昇し始めた。
しかし、僕がホッとして傍らのベッドに腰を下ろした矢先、数値がふたたび下降し始める。

「脈が止まります、呼吸も」

また看護士の声が遠くに聞こえ、ぼくは薄闇の中にお母さんの白い喉が最後にひとつ、大きく上下するところを見た。
それは、眠るように息を引き取ったとか、安らかに最期を迎えたというより、ただひとりの人間、ただひとつの肉体が、ごく自然に生きることをやめた、という表現のほうが相応しいように思えた。

お母さんは僕の声を聞き届けてくれただろうか。
そう信じたい。

賀茂川の桜並木 手前(右端)から5本が父親の植えた桜

この日、家の前では、お父さんが賀茂川の土手に植えた桜が満開を迎えていた。
お父さんより4歳年下で、4年後に同じ安田病院で亡くなったお母さんは、享年もまたお父さんと同じ89才。

お母さんがいなくなってからも、僕はしばらく泣かなかった。
翌30日月曜、お母さんがお世話になった老人健康保険施設ゆさかへ私物を取りに行き、担当の相談員、介護士、施設長に「お世話になりました」と頭を下げた時、初めてドッと涙が溢れた。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。2010〜2026年、東京スポーツでコラムや野球記事を連載。 日本文藝家協会会員。Yahoo!ニュース公式コメンテーター。
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