ピカソの名画を見に行った🖼

国立西洋美術館前の看板 使われているピカソの作品は『緑色のマニキュアをつけたドラ・マール』(1936年)

上野の国立西洋美術館で開催中の『ピカソとその時代/ベルリン国立ベルクグリューン美術館展』に足を運んできました。
世界でも屈指の蒐集家であり、美術商としても知られるドイツ系ユダヤ人、ハインツ・ベルクグリューン(故人)のコレクションから、ピカソを中心に、同時代の画家たちの名画や彫刻を多数揃えた大変贅沢な展覧会。

ピカソだけでも40作品、しかも35作品が日本初公開で、セザンヌ、ブラック、クレー、マティス、ジャコメッティらの作品を加えた点数は108作品。
うち21作品を解説した俳優・長谷川博己、ベルクグリューンの人物像を語った国立西洋美術館・田中正之館長の音声ガイドを聴きながらじっくり見て回ったら、たっぷり2時間かかった。

2度の世界大戦を経験し、女性関係も華やかだったピカソの画家としての生涯は、作風の変化とともにいくつかの時代に分けて語られることが多い。
今回の展示はそうしたピカソの生涯をなぞるように構成されており、最初は第1次世界大戦前、ブラックの知遇を得て、写実的な手法からキュービズムに傾倒していった時代の作品が並んでいる。

『座るアルルカン』(1905年)
『丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)』(1909年)
『帽子の男(通称:ジョルジュ・ブラックの肖像)』(1909〜1910年)

第1次世界大戦が近づいてきたころ、ピカソはルノワール、セザンヌなどの古典的手法を採り入れながら、新たな作風を模索し始める。
その中でもやはり、裸婦を描いた作品に印象的なものが多い。

『座って足を拭く裸婦』(1921年)
『踊るシレノス』(1933年)
『水浴する女たち』(1934年)

この時代を象徴しているピカソ作品は、1936〜1943年に恋愛関係にあった写真家ドラ・マールを描いた一連の肖像画だろう。
写実的なポートレートから、ピカソ流に描き崩した人物画を経て、シュルレアリスムの域に達したヌードに至る過程は、時系列に沿って並べられた作品を続けて見ると、思わず圧倒されるほどのインパクトがある(その中の一枚、『緑色のマニュキュアをつけたドラ・マール』はこの展覧会のポスターに使われている)。

『花の冠をつけたドラ・マール』(1937年)
『黄色のセーター』(1939年)
『大きな横たわる裸婦』(1942年)

世界的に知られた作風が確立されてからのピカソ作品は迫力たっぷり。
これだけ大きなサイズの実物を間近に見ると、やはりテレビの映像や本に掲載された写真から受ける印象とはまったく違うことを実感しました。

『海岸に横たわる裸婦』(1961年)
『男と女』(1969年)
『闘牛士と裸婦』(1971年)

ピカソのほかにも惹きつけられる絵はたくさんあったが、ここではマティスの切り絵を挙げておきたい。
とくに、昨年復刻されてベストセラーとなった有吉佐和子の『非色』中公文庫版のカバーに使われていた元ネタの実物が見られたことは一つの収穫でした。

『雑誌ヴェルヴ第4巻13号の表紙図案』(1943年)
『ドラゴン』(1943〜1944年)
『縄跳びをする青い裸婦』(1952年)

この3枚目の画像はマティスが84歳で亡くなる2年前の作品。
当時はすでに立ってカンバスに向かうことができなくなっていたため、座業で取り組める切り絵に専念していたという。

それでも、最近のスポーツ競技のアイコンを思わせるこの作品は、独特の躍動感と人間の生命力を伝えてくる。
ほかにも画像をアップしておきたい作品はたくさんあったけど、きょうはあと一枚にしておきます。

ピカソ『花束』(1956年)

あ、これは拙宅の寝室にかけてある安物の複製ですが😅。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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