BS世界のドキュメンタリー『トム・クルーズ-永遠の若さを追求して-』(NHK-BSP)😉

Tom Cruise,An Eternal Youth 
46分(オリジナル版53分) 2020年 フランス:Tournez S’il Vous Plait,Arte France
初放送:2020年11月26日(木) 午後11:00~11:46
再放送:2021年1月1日(金)午前0:00〜0:46

出演作品やインタビュー映像をつなぎ合わせてトム・クルーズの半生を紹介したドキュメンタリー。
クルーズ本人や家族、映画関係者に直接取材した素材が少ないので高くは評価できないが、この大スターが秘めた複雑な内面を浮き彫りにしようとしているところが興味深い。

12歳のときに両親が離婚しており、クルーズは3人の姉妹とともに母親に引き取られ、アメリカ東部やカナダを転々としながら暮らして、15年間で転校した学校は14に上ったという。
心を許せる友だちができない思春期、クルーズは信仰にすがるようになる。

1984年のテレビインタビューで、クルーズが高校1年で神学校に入り、寄宿舎での生活が楽しかった、と振り返る場面が印象的だ。
聖職者になろうと思ったことはないと話しているが、当時、宗教に癒された経験が、のちに新興宗教サイエントロジーに傾倒した遠因になっている。

クルーズが最初に志したのはアスリートで、ハイスクール時代にはアマチュア・レスリングに没頭していたが、ケガのために断念。
そこで、ミュージカル俳優に方向転換、端役で出演した『エンドレス・ラブ』(1981年)、『タップス』(同年)、『アウトサイダー』(1983年)などで存在感を示し、『卒業白書』(同年)の〝ブリーフダンス〟で注目株となる。

一気にブレークしたのはご存知『トップガン』(1986年)。
その背景には、当時ソ連による大韓航空機撃墜事件が発生、俳優出身のタカ派大統領レーガンが対ソ強硬路線を打ち出し、全米で盛り上がった〝反共ブーム〟があった、ということは、不勉強にして劇場公開時にはまったく知らなかった。

このとき、クルーズは弱冠25歳にして、単なる一主演俳優ではなく、作品全体に自分の考えを反映させる権限を要求。
脚本に手を入れることはもちろん、毎日撮影が終わるたびにラッシュをチェックし、編集にも手を出すようになる。

こうしてクルーズは海軍の広告塔となり、『トップガン』公開後には海軍への入隊希望者が全米で5倍、クルーズが映画で使用したレイバンのサングラスの売り上げは4倍に激増したという。
クルーズはその後、500万ドルを提示された『トップガン』の続編出演のオファーを蹴り、『ハスラー2』(1986年)でポール・ニューマン、『レインマン』(1988年)でダスティン・ホフマンと、アメリカを代表する名優と共演。

さらに、オリヴァー・ストーン監督の『7月4日に生まれて』(1989年)でベトナム帰還兵を演じ、自らも本格的演技派スターへの道を歩み始める。
一方、このころにはすでに、最初の妻ミミ・ロジャースによって、SF作家ロン・ハバートが創始したサイエントロジーに入信していた。

クルーズはやがて、テレビインタビューでサイエントロジーについて質問されるたびに教義や効能を長々と説くようになり、2005年にはオプラ・ウィンフリーのインタビュー番組に出演して異様にテンションの高いトークを披露。
サイエントロジーの教会でメダルを授与される内部映像がネットに出回り、ついには『宇宙戦争』(2005年)で組んだスティーヴン・スピルバーグから絶縁宣言を受けるに至った。

本作の後半では、それでも『ミッション・インポッシブル』シリーズ(1996年〜)を製作し続け、50代になっても若々しいイーサン・ハントを演じるクルーズをドリアン・グレイになぞらえ、1945年製作の映画版の場面を挿入している。
趣向としては面白いが、このあたりは少しやり過ぎで、もう少し現実に即した幕切れにしたほうが説得力が増しただろう。

オススメ度B。

スポーツライター。 1986年、日刊現代に入社。88年から運動部記者を務める。2002年に単行本デビュー作『バントの神様 川相昌弘と巨人軍の物語』(講談社)を上梓。06年に独立。『失われた甲子園』(講談社)新潮ドキュメント賞ノミネート。東スポ毎週火曜『赤ペン!!』連載中。 東京運動記者クラブ会員。日本文藝家協会会員。
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